映画 'Hostiles ' を観て……

 実際に映画を見るまで、本作は19世紀後半のアメリカにおける、原住民族と入植者の対立を描いたものなのかと思っていた。少なくとも予告編はそういう印象を与えるものだった。歴史的なものに触れつつ、闘いにフォーカスをあてたものなのかと思っていた私のいい意味での「勘違い」が働いて、本作を楽しむことができた。

 しかし本作はただ楽しんで観るには勿体無いものだと思う。そこには必ず何かしらの「メッセージ」があり、それはおそらく私たちに向けられたものである。それが一体何なのかを考え続けることが大事なのではないかと思い、考えをまとめる為にも映画紹介の体でこの記事を書くことにした。

  ' Hostiles ' 製作者のScott Cooper さんと彼の製作陣の伝えたかったメッセージ、それはきっと数日考えれば分かるような、単純なものではないだろう。まだ15の私には難しいこともあるだろう、そしてそのヒントは私がこれから歩く道の路傍に転がっているかもしれない。だから、分からないことは分からないなりにも考えつづけ、その「分からない」を把持し続けることが大事なのかな。

 以下の文章は映画の内容にも触れつつ、私が受け取ったであろう「メッセージ」についての私なりの解釈である。

 本作は原住民族が入植してきた家族を襲う所から始まる。その家族は入植たちがつくるコミュニティから外れた所で、おそらく農業を営んで生計を立てていた。入植者による保護を受けていなかったその家族は原住民族の中でも危険なものに目をつけられる。

原住民族による襲撃を受けて、父親は妻と娘たちを守るべく彼らの相手をする。が、馬にまたがり、武器を手に持った原住民族たちの前ではどんな雄姿もいとも容易くひねり潰されてしまう。

  母と娘たちはすきをみて裏口から逃げ出す。これに賊が気づかない訳も無く、娘二人はその場で撃ち殺され、母が抱える赤児も弾を食らって息絶える。母親はそれでも赤児を抱えて黒い森へ逃げる。この時点で私はこれが単なる闘いを描いたものではないと知らず、この女性も多くの犠牲者の一人なのだと認識していた、本作でこの女性が「メッセンジャー」の役割を担うとも知らずに。

 運よくこの女性は助かり、命の重みを奪われた愛おしい家族だった人たちがいる家へと帰る。その後、未だ降伏していない原住民族を捕らえる人を受けた軍人の男と出会う。

 この男と女の出会う所から物語は始まる、と言っても過言ではない。この男もまた「メッセンジャー」なのだから。

 女は軍人の男の旅団に保護され、任務に同行することとなった。そういえば、重要な人物がもう一人いたので、彼についても触れておこう。

 彼はすでに捕虜となった原住民族で、以前は族長だった男だ。自分たちの土地を奪った入植者たちへの憎しみに溺れるでもなく周りで起こる全てを静観するような、非常に賢い、今までの原住民との対立を描いた映画には出てこなかった人物像を持っている。彼と彼の家族、軍人と子を失った母で編成された旅団はまとまりを欠きながらもしっかりと前へ進んでいく。

 まとまりを欠く旅団がどのようにして一致団結したのか、察しの良いかたは気づいているかもしれないが彼らは「悲しみ」によって繋がる。「人は悲しみによってしか相手の心に近づくことができない」。そう、言葉によってのみ誰かに、そして自分に近づくことはできないのだ。

 物語が進むにつれて旅団からも死ぬ人が出てくる。同行した原住民の家族からも、そして無論軍人たちからも。こうして、彼らは彼らの「悲しみ」を共有することによって、本来演じるべき「軍人という役」や「それに対立する原住民の役」をすて、お互いの心は繋がる。

 敵対する原住民の長は死に、彼らの任はそこで終ったが、物語はまだ終わらない。軍人の男は同行した原住民の男とともに原住民の男の故郷へと帰ったのだ。男と男が言葉を超えて繋がる、ある意味感動的なシーンだ。

 最後、同行した原住民の家族は長の孫一人となり、子を奪われた母が引き取ることとなった。

 母とその子が列車に乗って悲しみの地を離れるシーン、男はそこに居残ることになっていたが最後の最後で彼も列車に駆け込む。私には「悲しみ」が「愛」に変わった美しい瞬間として映った。

 「話し合えばきっと……」「話し合わなきゃ分かりっこないよ」、多くの話し合いはタルいものでもあるがある場面においては重要なものである、そう教えられてきた私たちであるが、それが意味をなさない場面があることを私は教わっていなかった。戦争などを経験していな私のような世代はなおさら、それを「身を以て」しることは無い。そういった人たち(私のような生意気な小僧)に向けたメッセージが込められたものなのではないか、そう私は感じた。